古本
近ごろ、とある人物の評伝を読了した。
一人の芸術家の幼少期から晩年に至るまで、作品の変遷を追う。やや古い時代のものであるから、新聞記事や書簡なども頼りに輪郭が描き出される。
有名な作家ほど幾つも評伝が出たりするため、その表情は多彩になる。評伝は初めてだったが、著者の目を通して人生を辿る作業は非常に面白いものであった。
就寝前の日課としていたが、むしろ眠りを妨げているのではないかと思うことも屢屢であった。
いよいよ最終章を読み終え、参考文献、あとがき、奥付に至る。
文章を夢中で追うのも読書の醍醐味の一つだが、読後の感興はその本によって大きく異なり、個人的に楽しみにしている時間だ。
ふと、もう一頁めくると、ささやかな一枚の紙切れがみえる。
もともと状態の良い本だったので、購入する際には気がつかなかった。
巻末の遊びの部分。何も書かれていないその見開きに、薄い紙切れがひっそりと佇んでいた。
無地の白い短冊形で、しっとりと馴染んでいる。
ひらりとめくれた裏面には、薄く印字がある。
京都店
それは、書籍購入時のレシートであった。
ジュンク堂京都店といえば、2020年初めに閉店となったばかりである。
つい寂しさに心をくすぐられたが、購入日をみて更に驚いた。
2007年12月15日(土) 20:54 取引No.5183 一点買
まさしく、13年前の今日なのである。
もはや大きな運命に似たものを感じ、しばし放心した。
たった一枚のレシートが、前・所有者を夢想させる。
レジに並んだのは、どんな人だろうか。土曜日の夜、四条河原町の書店に立ち寄り、どんな思いでこの本を手に取ったのか。
「お預かり ¥10,000」という記録すら、想像の種となってしまう。
購入後は、どのように読んだのだろう。あるいは、読まないまま売りに出したのだろうか。
古本には、前・所有者の痕跡が見えることがある。
綺麗なままであることも、一種の痕跡となりえる。
装丁、主題、著者、話題性。
本を手に取る理由はいろいろあるだろう。
人から人へ、渡る本。
みえない繋がりを感じることを忘れつつある現代で、本が思い出させてくれることもあるだろう。
春か、秋か、
忘れられた春。
日常に鎖が掛かり、砂漠に放り出された。
砂漠を一人歩いて行くと、丸い月。
慣れた目で、影を追う。
今の心情は、春の気分か、秋の気分か。
澄んだ空は影一つなく、透明で青い。
雲すら浮かばず、己というものが吸収されてしまいそうだ。
交錯する電線。小さな黒い、鳥の影。
他には何もみえない。
どこまでも広く、無が広がっている。
青い無は、街を覆って、均一で遠い。
山の端へ至ると、薄まっているのが分かる。
あの山へゆけば、逃れられるのだろうか。
僕らを置いて太陽は逃亡し、暮れゆくと満月が昇る。
あたたかみのある色彩に見守られ、なんとなくみつめ返す。
この日々の感情は秋の心だろうか。
次の季節を待ちながらも、春の色が混ざり込むようだ。
何かに感動して、涙が落ちた。
その感情の動きに、安心する。
季節の心情というものがあることに気がつく。
失われた季節があることにも気がつく。
人と関わると、感情が刺激される。
こころのうちを、わかちあったり、しまいこんだり。
そういった人間の機微が、分からなくなって悩んだり。
自然との対話だけでなく、心というものを涵養したい。
不器用なりに、もっと人を深く知りたいと思う。
一人になりたがっていた人間の、最近の変化である。
濃縮還元summer
梅雨はとうに明けたが、強い日差しと熱帯夜の波に晒されている。
お盆。ダレた心と未熟なやるせなさを持て余し、鴨川沿いを亡霊の如く彷徨していた。
太陽を照り返し、いのちを漲らせる草木が眩しい。白く輝く雲は体積を増し、壮大な王国を作り上げている。
犬の散歩やランニングをする人、日焼けした青年に、川で遊ぶ子供たち。
蝉の声は折り重なって、夏らしい景色を繋ぎあわせる。
そう、なんというか強すぎるのだ。
色んなものが主張しあって、暑さの中に飽和することで夏が出来上がっている。そこに一種の調和が生まれているのか、どこを掬い取っても夏に満ちあふれ、川面のきらめきやジリジリ焼かれるような感覚が訴えかけてくる。この熱に冒されて、BBQや海水浴をしたくなる気持ちは分からなくもないが、浮かれまわるほど素直になれない。
自分を解放して、大きくなった精神でいるのは楽で愉快だ。心の片隅に孤独や寂しさを抱えていて、他者とつながりたいという欲求も自然なものだと思う。けれど、人と人とが同調するのはけして簡単ではなくて、無理に意気投合したふりをするのはどうも性に合わない。
ねじけているだろうか。
そこら中に生えたエノコログサやセイタカアワダチソウも呆れ果てている。
つまらないので、鴨川に浸かることにした。一度、アタマを冷やしたらよい。
裸足になって足をいれてみる。
思ったよりも川の水は冷えていて、流れも速い。
川底の石は少しぬめっている。足をとられそうになりながらも、深い場所を探す。
腰をおろし、身体を浮かべてみた。
雑多な音は消え、静けさのなかで流れに身を任せる。
石の間を流れていく水の音を横目に、橋越しのまばゆい夏空がみえる。
じつに心地よい。
このままずっと、たゆたっていられないだろうか。
ふと川辺に目をやると、犬が羨むようにこちらを見つめている。
入りたいなら入れば良いのに、暫くするとふいと飼い主の方へ戻っていった。
冷えた身体のまま、岸へあがり、陽を浴びる。
みると、小さなヤゴが付着していた。手のひらにとり、岩にかえす。
服も乾いてきた。
自転車にまたがり、赴くままにペダルを回す。にわかに、灰色の厚い雲が立ちこめ、夕立ちが降り始めた。雨粒が激しく打ちつける。なんとか屋根を探し、雨宿り。過ぎ去るまではしばらくかかりそうだ。バッグに入っていた本を開き、止むのを待つ。ほどもなく、雨はあがった。この時期は通り雨が多い。新聞のコラムで読んだが、今日は”二百十日”といって、台風が訪れる日とされているらしい。嵐を鎮めるべく、「風祭」と呼ばれる祭礼が各地の風習として残っているそうだ。一方で、稲穂がひらき、秋の予兆を感じる節目でもある。
気がつくと、日が暮れはじめている。
夕暮れの変化は一瞬だ。街が琥珀色に染まり、道行く人も街路樹も車も家も輝いている。漂う雲は多彩な表情を見せ、別世界が広がっている。すぐさま色は移り変わり、優しい紅色が全てを包み込む。めくるめく夕陽の世界を目で追っていると、やわらかな色はどんどん激しく、燃えるような赤へと変貌してゆく。太陽は断末魔をあげ、夜の藍色に呑み込まれる。
仄明るい西の空。
太陽が消えた方角には嵐山が位置している。桂川が流れる渡月橋一帯は、紅葉や桜の名所として名高い。今は比較的観光客が少ないため、ちょっとした風情も感じられる。
この季節、嵐山では鵜飼見物が催されており、屋形船から漁の有様を見ることができる。
昏い水面に浮かべられた小さな船には、鵜の意匠が施された提灯がいくつも掲げられている。船内には茣蓙が敷かれており、十人ほどを載せると、船頭が声をかける。棹をさして、船はゆっくりと漕ぎいだした。
川沿いの灯りが遠く、ゆらめきながら映りこんでいる。どうやら船はひとつではないらしく、他の船着き場から来た船に合流し、数珠つなぎになる。
この船は最後尾だ。
隊列をなし一列になった船の横を、鵜舟が通るらしい。
川上は吸い込まれるように暗く、この列がどこまで続くのか分からない。目を凝らすと、遠くにちらちらと火影が見える。いよいよ、鵜舟にかがり火が焚かれたようだ。
次第にその影は大きくなり、二艘の鵜舟がやってくる。船頭の話によると、鳥目である鵜は夜目がきかず、篝火は鵜の視力を補うために灯されているらしい。パチパチと炎の弾ける音とともに、風にのって火の粉が舞いあがる。ときおり、薪がくべられると、吊された炎は大きくなり、ゆらゆらと揺れる。どこか幻想的で懐かしい。人類の歴史に火は欠かせないものであり、信仰や文化の源となってきた。篝火をみつめていると、共鳴するものがあり、日々の感情の隙間を埋めてくれるような、何か満たされて心が奪われるような、不思議な感覚に陥る。
「みえんか、みえんか」「おらんか、おらんか」
鵜匠の声かけで鵜は潜るが、なかなか獲物を捉えられない。
有名なのは鮎だが、食べるものは何でも捕るため、オタマジャクシやナマズを呑むこともあるそうだ。
「とった!」
一匹が何か捕まえたらしい。鵜匠が縄を手繰り寄せ、その鵜を舟にあげる。
さあここからが本番。絶妙な手つきで鵜に魚を吐かせる。
ややあって、鵜の口から一匹の魚が飛び出した。
歓声があがり、拍手がおこる。
一瞬でよく見えなかったが、飛び出す様は面白い。その後も何度か吐き出すところがみられたので、満足である。漁を終え、鵜は舳先に整列する。ご苦労であった。そのまま鵜舟は川へ消えて、見えなくなった。
余韻に浸る帰り際、渡月橋から花火が上がった。
小さな花火だが、夏らしくて素敵だ。
特別な夏。
桟橋をあがって、階段をのぼる。
受付の梁の下に、大量の蜉蝣が群れていた。
夏が終わってゆく。
夜の散歩
眠れない夜が続いている。
肉体的疲労もなく、募る不安や悩みばかりが夜を引き延ばす。日中は割り切っていても、夜になるとじわり思考が滲み出す。疲れているのに心は安らいでいないのか。瀬田川の藻に絡め取られたボートのごとく、重くなって進まない。日々の不安には正体がない。将来の不透明さから来る部分もあるだろうが、そもそも未来は不透明だ。むしろ、今やりたいことが出来なかったり、実践するために先を見通すことの煩わしさが大きいようにも思う。今までは簡単だった。はじめに予定があり、その目標に向って現在に集中する。計画は外部からの作用も大きく、ある種の義務が生じていた。そういった環境に身を置いてしまえば、やることは決まってしまっていると言ってもよい。しかし、自立していくときには一定の自由を渡されるものの、それを自力で料理せねばならない。形だけは、どこかで見たような”義務もどき”ができあがっても、洗練されておらず脆弱だ。慣れるまでは仕方のないことだろう。試行錯誤を繰り返し、自分の舌にあうよう調えていく。一方では、社会の中にある制約や規範が障壁となり、外部への働きかけも欠かせない。折衝し、ときには妥協点を探る。これで落着かと思うと、不確定が自分の行動を曇らせる。作った計画が頓挫すると、また初めから考えねばならない。いまのような不安定な時代では、こういった事故が多発する。できの悪いすごろくみたいに、至る所に「ふりだしへ戻る」が氾濫している。もともと社会はそういう性質のもので、不条理だの残酷だの耳タコだけれど、自分の実感として薄かっただけなのかもしれない。でも、人間は学習する。そうやって生活を築き、可能性を広げてきた。苦悩したり失敗して怪我をすることも多いけれど。とかく、生き物が環境に適応するには多大な労力が払われていて、その一面が顕在化しているだけだとでも思えばよいのだろうか。
...と、暇に任せて言葉を綴ってみる。
それでも、夜のもやもやは部屋に立ちこめる。
何かを期待して部屋の窓をあけてみたりする。
湿った空気が流れてくるだけだ。
ふいに、勘違いをした蝉が鳴く。
自分も似たようなものだろう。
夜はどこまでも続いている気がして、甘えたくなってくる。
夜の思考は出口がない迷路だ。
退屈が毛羽立ってどうしようもないようなときは、夜道を徘徊する。
僕は、警備員と野良猫の関係を妄想したり、萎れた赤い花と膨れる蕾を重ねたりして、知りえなかった秘密を手に入れた子供みたいに嬉しくなる。
今日は久しぶりに星が綺麗な夜だ。
ぼーっと眺めていると、かすかに瞬く星がたくさんあることを知る。
そして、いつの間にか僕は夜空の上に立っていた。
幾つもの飛行機が、音もなく渡っていく。
ある日
吉田の山の片隅に
真っ赤な薔薇が咲いていた。
柔らかい、真紅の布を
折りたたんだような襞が誘惑する。
曇り空の下に燃え
風にも揺られず座っている。
さようなら。
野生のバラ。
実の成らない花はないけれど
どうか
きっと
あの花は
僕の家に棲む蜘蛛のように
ひそかに誰かを待ちつづけ
巣を張り
消える。
そして
残り香も
風にまぎれ
遠くへ流れてゆく。
今日はどこからか
墨のにおいがする。
雨おどる
こうも雨つづきだと嫌になるね。
梅雨の時期になるとこんな言葉を聞くことが多い。
ジメジメして、洗濯物も乾かないし、外出したら濡れねずみ。日照時間の少ない土地では、鬱になりやすいとも言うから、晴れの方が心地よいのは明らかだろう。
ここ最近は各地で豪雨による水害が起こり、既に大きな被害も出ている。天災は非情である。どれほど科学・技術が発展しようとも、人間は災害から逃れることはできない。
傷が癒えるまでには時間がかかる。時間をかけて、人とのつながりや生活を見つめ直し、少しづつ営みを取り戻していく。
幸運にも、僕の生活圏は今のところ脅かされていない。
。
。
雨。
あめ。
アメ。
Ame。
梅雨に降る雨は、さらさら静かに降り始める。雨に音が消えていくかと思うと、どこか遠くから聞こえてくる音もある。不思議なものだ。
やがて、ぱらぱらと粒だって、そこら中で小さな雨粒の弾ける音に変わる。しばらくすると、雨は屋根にあふれ、樋を伝ってぽたぽたと滴り、水たまりや用水路に流れる水の音が聴こえてくる。古くは、「にわたずみ」という言葉もあったらしい。
傘をさして町へ出ると、雨はあらゆるものを打ち鳴らしている。
それらの音に、靴やタイヤから跳ねるしぶきの音も加わると、だんだん大きなうねりになって、真っ白なノイズにつつまれる。
次第に、雨粒は肥大し始め、重く、激しく、辺りを叩く。
我々は大きなビートと波に濡れ、煙り立つ道を進むほかない。
やむを得ず、雨宿り。
露を払い、己をみればすっかり水びたしだ。
この隙にどうにか乾かないものか、と思案しているうち、雨足が和らいできた。
ふたたび傘をとり、歩きだす。
ふと、雨に濡れたヒルガオが目にとまった。晴れている時よりも風情があり、どこか寂しげで可愛らしい。
雨が降ると、たくさんの生命が湧き、いきいきと輝く。
草木は茂り、虫は這い出し、蛙は歌う。
母なる海を思い出すのだろうか。
雨上がりの匂いも好きだ。
土や草から独特な香りが漂い、人間以外にも様々ないのちがあることを実感できる。
そうやって、雨は、すべての生き物たちと交流する。
梅雨の季節こそ、ヒトは野生を思い出し、純粋に、素朴に、自然を受け入れられたら楽しいだろう。
つらつら考えていると、雨音がしずまっている。
雲を分け、晴れ間が広がってきたようだ。