夜の散歩

眠れない夜が続いている。

 

肉体的疲労もなく、募る不安や悩みばかりが夜を引き延ばす。日中は割り切っていても、夜になるとじわり思考が滲み出す。疲れているのに心は安らいでいないのか。瀬田川の藻に絡め取られたボートのごとく、重くなって進まない。日々の不安には正体がない。将来の不透明さから来る部分もあるだろうが、そもそも未来は不透明だ。むしろ、今やりたいことが出来なかったり、実践するために先を見通すことの煩わしさが大きいようにも思う。今までは簡単だった。はじめに予定があり、その目標に向って現在に集中する。計画は外部からの作用も大きく、ある種の義務が生じていた。そういった環境に身を置いてしまえば、やることは決まってしまっていると言ってもよい。しかし、自立していくときには一定の自由を渡されるものの、それを自力で料理せねばならない。形だけは、どこかで見たような”義務もどき”ができあがっても、洗練されておらず脆弱だ。慣れるまでは仕方のないことだろう。試行錯誤を繰り返し、自分の舌にあうよう調えていく。一方では、社会の中にある制約や規範が障壁となり、外部への働きかけも欠かせない。折衝し、ときには妥協点を探る。これで落着かと思うと、不確定が自分の行動を曇らせる。作った計画が頓挫すると、また初めから考えねばならない。いまのような不安定な時代では、こういった事故が多発する。できの悪いすごろくみたいに、至る所に「ふりだしへ戻る」が氾濫している。もともと社会はそういう性質のもので、不条理だの残酷だの耳タコだけれど、自分の実感として薄かっただけなのかもしれない。でも、人間は学習する。そうやって生活を築き、可能性を広げてきた。苦悩したり失敗して怪我をすることも多いけれど。とかく、生き物が環境に適応するには多大な労力が払われていて、その一面が顕在化しているだけだとでも思えばよいのだろうか。

 

...と、暇に任せて言葉を綴ってみる。

 

それでも、夜のもやもやは部屋に立ちこめる。

何かを期待して部屋の窓をあけてみたりする。

湿った空気が流れてくるだけだ。

ふいに、勘違いをした蝉が鳴く。

自分も似たようなものだろう。

夜はどこまでも続いている気がして、甘えたくなってくる。

 

夜の思考は出口がない迷路だ。

退屈が毛羽立ってどうしようもないようなときは、夜道を徘徊する。

僕は、警備員と野良猫の関係を妄想したり、萎れた赤い花と膨れる蕾を重ねたりして、知りえなかった秘密を手に入れた子供みたいに嬉しくなる。

 

今日は久しぶりに星が綺麗な夜だ。

ぼーっと眺めていると、かすかに瞬く星がたくさんあることを知る。

そして、いつの間にか僕は夜空の上に立っていた。

 

幾つもの飛行機が、音もなく渡っていく。